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デッサウ、バウハウスの風景

INSIGHT

Takahiro Tsuchida

vol.07 2021.05.20

豊かなクリエイションを発信するもの、こと、人、場所をデザインジャーナリストの土田貴宏さんの目線で捉える“INSIGHT”。毎月20日の更新で世界のデザインのあれこれをお届けします。

土田貴宏
土田貴宏

ライター/デザインジャーナリスト。2001年からフリーランスで活動。プロダクトやインテリアはじめさまざまな領域のデザインをテーマとし、国内外での取材やリサーチを通して、「Casa BRUTUS」「AXIS」「Pen」などの雑誌やウェブサイトで原稿を執筆。東京藝術大学と桑沢デザイン研究所で非常勤講師を務める。
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デッサウ、バウハウスの風景

1919年から14年間の短い活動を通して、多くの優れたデザイナーを育てたドイツの伝説的造形学校「バウハウス」。創設者のヴァルター・グロピウスが設計したデッサウの校舎は当時のままに復元され、内部を見学することが可能です。そこを訪れた際に撮った写真とともに、現在も大きな影響力をもつバウハウスの意義を考えてみます。

デッサウ、バウハウスの風景

バウハウスは、世界のデザインの長い歴史において最も有名な学校に違いありません。近代建築の巨匠たちが校長を務め、マルセル・ブロイヤーヴィルヘルム・ワーゲンフェルトマックス・ビルはじめ20世紀を代表するデザイナーが学んだことから、この学校がつくり出したスタイルを思い浮かべることができるでしょう。しかしさらに調べてみると、バウハウスのスタイルというものが、実はあまり明確でないことがわかります。14年の間に校長はヴァルター・グロピウスからハンネス・マイヤー、そしてミース・ファン・デル・ローエへと代わり、校舎やカリキュラムも変化しました。教師も学生もそれぞれ個性にあふれ、網羅した分野はプロダクト、アート、テキスタイル、グラフィック、建築など多岐にわたり、演劇も盛んでした。いくら資料に目を通しても、バウハウスのデザインを定義することは至難の技なのです。

デッサウ、バウハウスの風景

しかし実際にドイツのデッサウを訪れて、その建物を見学してみると、バウハウスらしさを理解できる気がします。ここにバウハウスがあったのは竣工時の1926年から1932年まで。最初にヴァイマールで創設され、1925年に移転を余儀なくされたものの、デッサウに新校舎を建てて発展できたのは、進取の気質をもつデッサウ市の支持があったからでした。現在はベルリンから電車で1時間半ほどでデッサウに着きますが、当時も約4時間で行き来ができたといいます。世界で初めて金属製航空機を量産したユンカースを擁する産業都市のデッサウは、ヨーロッパ有数の文化都市だったベルリンから刺激を受けつつ、新しいものづくりに挑戦しようという機運がありました。上の写真は学生や若い教師の寮として使われていた建物のバルコニー。当時の学生は、ここに出て隣室の仲間たちと会話したといいます。現在、この建物は見学者の宿泊が可能です。

デッサウ、バウハウスの風景

バウハウスの校舎は、デッサウの市街中心部からやや距離を置いた穏やかな風景の中に、ひときわ目を引く姿で立ち現れます。特に印象的なのは、ガラスのカーテンウォールを大胆に取り入れた工房棟のファサードでしょう。このカーテンウォールは一部が開閉式になっていて換気が可能。内部には学生たちが実習を行った工房が連なり、オープンな環境で日々の学びが実践されていたことがわかります。上の写真では、カーテンウォールの1階部分の下に細く白い壁があり、その下に半地下を置くことで、建物が浮かんでいるようにも見えます。グロピウスの建築は、見方によっては機能主義的で無機質ですが、それ以上に明るく、自由で、未来的な印象を受けます。その存在感は学生たちの精神を大いに鼓舞したに違いありません。

デッサウ、バウハウスの風景

広い窓から十分な自然光が入り、余裕をもって設られたバウハウスのインテリア。すべての建物や空間が幾何学的に構成され、モノトーンを基調として部分的に鮮やかな色彩を取り入れたこの建物が、モダニズムの象徴であるのは確かです。ただし、ここで試みられたのは、機能的で合理的なデザインだけではありませんでした。ものづくりの伝統や慣習に縛られず、前衛的な発想や表現が日々繰り広げられ、時代を突き抜けるエネルギーが渦巻いていたのです。「バウハウスは私にとって、これがまず最も重要なことでしたが、抵抗を意味していました」。学生として、後に教師として、計13年間もバウハウスで過ごした芸術家のヨゼフ・アルバースは当時を回想してこう述べています。

デッサウ、バウハウスの風景

多様なデジタル技術の発達によって、社会や暮らしのあり方が大きく移り変わる昨今。さらに想定外のパンデミックが時代の変化をいっそう加速させています。第一次世界大戦を経て科学や産業が足早に進歩した1920年代もまた、人々は変化を感じていたことでしょう。バウハウスでは、そんな中でも未来に対して怯まずに、芸術と産業を交差させるものづくりが追求されました。ブロイヤーが鋼管を曲げたフレームを用いた「ワシリーチェア」は、そのムーブメントを象徴する作品のひとつです。ユンカースの協力を得て、工業技術をかつてない発想で活用した椅子は、木工の時代に比べてデザインの自由度をはるかに高め、新時代のものづくりの模範となりました。こうしたデザインとテクノロジーの融合が産業を発展させ、日常の風景を変えていきます。先端的な創造の成果を世の中に行き渡らせるのも、バウハウスが一貫して意図したことでした。

デッサウ、バウハウスの風景

デッサウ市内のエルベ川沿いには、コーンハウスという円形テラス付きのレストランがあります。グロピウスの右腕だった建築家、カール・フィーガーが1929年に設計した建物で、バウハウスの教師や学生たちが夜毎に集ってにぎやかに過ごしたという場所です。「バウハウスの人々は楽しいことを愛し、遊びに夢中になり、パーティーと祭りに明け暮れていた」。これはバウハウスの初代マイスターだったリオネル・ファイニンガーの娘で、自身も同校に学んだT・ルックス・ファイニンガーの言葉です。モダンデザインに数々のイノベーションを起こした偉大な創造の土壌には、日々の喜びを大切にする前向きで人間的な側面があった。そんな姿勢にこそ、現代の人々はもっと学ぶべきなのかもしれません。

参考文献:「バウハウスの人々―回想と告白」エッカート・ノイマン(みすず書房)

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