INSIGHT|vol.35インサイト|vol.35
INSIGHT
リセ・ヴェスターによる次代のマスターピース
2025.10.31
豊かなクリエイションを発信するもの、こと、人、場所をデザインジャーナリストの土田貴宏さんの目線で捉える“INSIGHT”。隔月の更新で世界のデザインのあれこれをお届けします。
土田貴宏
ライター/デザインジャーナリスト。2001年からフリーランスで活動。プロダクトをはじめとするコンテンポラリーデザインを主なテーマとし、国内外での取材やリサーチを通して雑誌などに執筆。東京藝術大学と専門学校桑沢デザイン研究所で非常勤講師を務める。近著『The Original』(共著、青幻舎)。 デザイン誌『Ilmm』(アイエルエムエム)のエディターも務めている。
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空を見上げるためのベンチ。デンマークのMuutoから今年発表された「ドリームビューベンチ」は、次代の北欧家具のシンボルになりそうなプロダクトです。デザインしたのはコペンハーゲン在住のリセ・ヴェスターで、彼女は1990年代生まれ。デンマークでデザインを学んだ後、イギリス・ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)に進み、在学中からデザインとウェルビーイングの関係にフォーカスしました。環境がもたらす心理的効果や幸福度についてのリサーチは、あらゆる活動に反映されています。
リセ・ヴェスターの作風の起点としてしばしば語られるのは、まだデザインを学んでいなかった2011年の体験です。叔母が最後の日々を送っていたホスピスを訪れた時、人が過ごす環境の大切さが彼女の心に刻まれたのです。やがてRCAに進んだ彼女は、今度はデザイナーの卵としてホスピスの患者のためのデザインをテーマにします。その成果は、ベッドに横たわる患者にとって心地よい触感と音楽を提供するプロダクトとして発表されました。
RCAを修了し、デンマークに戻ってデザイナーとして活動を始めたリセ・ヴェスター。その最新作が「ドリームビューベンチ」です。メタルの板を折り曲げたような硬質なルックスは、一見、ウェルビーイングには結びつかないかもしれません。しかし身体に馴染む有機的な曲線だけで構成したシートは、人間工学をふまえていて快適性は十分。また素材はステンレスなので屋外に設置でき、メンテナンスも不要です。さらに、このフォルムには独自のコンセプトがひそんでいます。
ドリームビューベンチに腰掛けて独特の曲線に身を任せると、視線が自然と上を向きます。そして空が視界を満たすのです。普段、私たちは空があること、見えることを当然だと思い、注意を払うことはめったにありません。スマートフォンが普及して、常にたくさんの情報に触れている現在は、そんな傾向がいっそう明らかではないでしょうか。空は太古の昔から未来まで、あらゆる人工物と無関係に存在します。それを見上げることは、意識を日常から開放する効果があるに違いありません。
「私たちは1日の大半を、常にスイッチを入れた状態で、進み続ける自動操縦のように過ごしています。ドリームビューベンチは、そのリズムをあえて中断させるのです」「インフラオーディナリー(infraordinary)という考え方、つまり空の変化や雲の動きなど日常の気づかれない美しさにインスピレーションを受けました」。リセ・ヴェスターは、こう説明しています。インフラオーディナリーとはフランスの作家ジョルジュ・ペレックによる造語で、当たり前に存在しながら欠かせない物事を指しています。
デザインは、人間の感覚や心理にどのように働きかけるのか。リセ・ヴェスターは、RCA時代からこのテーマを追求してきました。たとえば、好ましい感情や行動をもたらすように、物事を認知する方法にアプローチする認知行動療法。また、脳科学の視点から「もの」の審美性やその効果を捉える学問領域、ニューロエステティクス。彼女はこうした専門的な研究もリファレンスとしながら、独自のデザインに取り組んでいます。さらに、2020年からのパンデミックによる生活環境やコミュニケーションの変化が、ストレス、孤立、メンタルヘルスなどの問題に対してデザインの可能性を考える上で新しい視点を与えたといいます。
2025年6月に開催された3daysofdesign。Muutoがその際に行った新作発表の場で、周囲の風景やその色合いを映し出すドリームビューベンチは主役のひとつでした。ショールームのある建物の屋上で行われたインスタレーション「Grounded in Nature」は、訪れた人々が自然のリズムに帰るひとときを提供するもの。視覚、触覚、聴覚、嗅覚などあらゆる感覚に働きかけることが意図されました。ドリームビューベンチのサイズは2種類で、自分だけで静かな時間に浸れるひとり用のタイプと、ふたりが一緒に座れる幅のタイプがあります。
発表から間もない製品でありながら、ドリームビューベンチはすでにコペンハーゲンのカストラップ空港にも設置されています。この椅子が北欧デザインの名作として認められうるクオリティをそなえている証でしょう。1枚の板を折り曲げて快適なシートにした先例には、フィンランドのアルヴァ・アアルトによるパイミオチェアがあります。こちらは成形合板を用いたもので、結核の療養所のため、休息する患者の呼吸のしやすさに配慮して発想されたものでした。ドリームビューベンチはいっそうミニマルでアイコニックな形態をしていますが、ともに広い意味でケアのためのデザインであることは興味深いポイントです。
ドリームビューベンチは、コペンハーゲンにあるデンマーク・デザインミュージアムの中庭でも使用されています。このミュージアムでは、2022年から24年まで開催した「THE FUTURE IS PRESENT」展でリセ・ヴェスターの作品「Dream View Sphere」を展示。窓辺に置いて屋外の風景を上下逆さまに投影するこの作品はミュージアムの所蔵品になりました。タイトルが共通するところからわかるように、やはり当たり前にあるものが秘めている潜在的な力を可視化したものです。
デザインが自然回帰を促したり、ヒーリングのような効果をもたらすことは、天然素材やクラフツマンシップと結びつけて語られるのが一般的です。それに対してリセ・ヴェスターは、現在のデザイナーならではの感覚を生かし、科学的な知見も取り入れて、今までにないデザイン手法に踏み込んでいます。北欧らしい人間中心主義的デザインを更新する姿勢から、今後も目が離せません。
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